
皆様から膨大なメッセージを頂いていますが、頁数の関係で「抜粋・編集」させて頂きましたことをご理解ください。(敬称略)
2021年9月~2023年12月
島本先生没後、皆様からお手紙やメールをいただき或いはお会いしてお話を伺いました。
横瀬夜雨 研究者 横瀬隆雄
原稿用紙10枚に及ぶ書簡を頂戴しました。流麗な達筆のため一部判読ミスの可能性あり。
拝復、市役所から連絡がありました。どうしているかと案じていたのですが、おなくなりになられましたか。残念です。ご年齢からすると仕方ないでしょう。私は先生より十歳年下ですが(八十五歳)、数年前から体調すぐれず、最近も一か月ほど病院生活をしていて、一応退院して約一か月ばかりです。膀胱まで管を挿入され尿袋をぶら下げて訪問看護を受けている状態です。一時は歩行も殆どできなくなり、酸素ボンベを付けられそうでしたが、どうやらそれだけは免れ、リハビリで家の中の移動は自力でできるようになりました。
そんなわけで手紙一つ出す気力もなく、一昨年九月、島本先生にお送りしたお米が戻って来た時も何度かお電話して通じないまま、もうお歳だから要らないのだろうと考えてそのま まにしてしまいました。ご両親のご霊前にお供えするとのことでしたのでずっと新米が出来るとお送りしたのをやめた次第です。先生からも年初めに頂いていた葉書も来なくなりました。おそらく体調が悪かったのでしょう。
私は酔茗先生にもお目にかかっています。久恵先生の「長流」八巻のお祝いとかで書庫を新築された直後だったと思います。夜雨門下で河井酔茗先生とも親しかった磯山松男氏に連れて行ってもらったのでした。夜雨顕彰のお話があって行ったのだと思います。庭先の井戸から冷たい水を融先生が汲んで下さったのですから夏の午後だったと思います。久恵先生が酔茗は古いことは良く覚えているが新しいことは忘れてしまうと笑い話をされたのを覚えています。
その時河井酔茗先生は若い私に夜雨の偉大さを力説されともすると夜雨の人間性に批判的になっていた私に大きな衝撃を与えられました。これほどまでに詩兄から大事にされる夜雨はやはり格別なものに違いないと思え、夜雨の研究に打ち込めるようになりました。お送りした拙稿にお褒めの言葉を下さった葉書もあります。先生ご逝去後も夜雨顕彰の催しをする時は久恵先生の所へご相談に伺いましたが、いつも雨戸を半開きで執筆に勤しんでいらっしゃるのを拝見、長居をしないように心がけましたが、伊良子清白の故郷に行かれた時のお話など今も心に残っています。
調べられずにいた「女子文壇」の数号など先生自ら調べて送って下さった原稿本どこかにあるはずです。久恵先生追悼号に融先生からの依頼で拙文を書かして頂きました。先生亡き後は融先生と浅く長いお付き合いが続きました。夜雨記念会にいらっしゃってお話して下さったこともあります。またご両親が大事にしてきた夜雨の手紙だからと下妻の博物館開館時に全てコピーを許され公開を託されました。私の怠慢から十年以上かかってしまいましたがそれでも「河井酔茗宛横瀬夜雨書簡集」としてまとめることが出来ました。殆どは封筒が捨てられていて、島本先生が「文庫」「女子文壇」の復刻をして下さらなかったら年月の推定が出来なかったと思っています。
私としては軽い脳梗塞をやって、後遺症が少し残っている中で何とか融先生の付託におこたえできたような気持ちで、その後「評伝横瀬夜雨」という小さな本も出して夜雨に一応の区切をつけた気持ちです。久恵先生には「横瀬夜雨、生涯と文学」を書く際に全面的にお世話になりました。
「長流」引用の夜雨書簡もすべて「書簡集」の中に収めました。融先生から二、三か所へ寄贈するよう申し付かりました。
お三人の顕彰とのことですが、先生のお手元にあった明治の雑誌や蔵書、諸々の書簡等はどこに収められましたか。融先生の事ですからそのご心配はなさっておられたと思いますがお分かりでしたら一応お教え下さい。もっとも私はもう研究は出来ませんし、自分の手元にあるものをどうするか困っているほどですから出て歩くことはできませんが何かお手伝いできることがあればお申し付け下さい。と言っても生きていればの事ですが・・。あまり長くない予感がしていますから。
なお、こちらには一応、横瀬夜雨記念会という会があります。(下妻市ふるさと博物館内)私の長男が事務局をしていますのでご利用ください。なお博物館内には私の担当した夜雨記念室があります。一応ご覧いただければと思っています。電話(小生宅)は出られるかどうか分かりませんが一応書いておきます。 五月二十八日 横瀬生
追伸 融先生は美学者としても詩人としても優れた方だったのに名声を求められなかったし世に知られる著書や詩集も残されなかったのは残念です。そして先生でなければ分からない河井酔茗、久恵先生の伝記を書いておいて下さらなかったのは両先生にとっても不幸だったと思います。
追伸2 区に相談し酔茗、久恵記念館を作り蔵書類を分散しない方が良いと思います。




鎌倉漱石の會 菅佐原智治
島本融先生の講演
3回の講演日程
鎌倉漱石の會 島本融先生の講演
講演会場の帰源院
島本融氏は平成元年12月3日の鎌倉漱石の會漱石忌例会の講師として招聘したことから交際が始まる。その後平成6年の第65回鎌倉漱石の會忌例会、平成9年の第71回鎌倉漱石の會忌例会に講師として出演願ったことから、個人的にも親交を深めていった。
河井酔茗家の家督を継いだ令息・島本融氏の死去により河井家島本家の家督を継ぐべき遺族は絶えた。そんな中、島本融氏の生前、常日頃よりお世話していた榎本美恵子氏ほか教え子の皆さんが供養と顕彰事業を進めている。 (菅佐原さんの別の文書より編集転載)
以下榎本付記
(平成元年、平成6年、平成9年の講演写真)会場が同じで一見同じ日の講演に見えるが、よく見ると受講者が違い、先生のお顔にも9年の歳月が感じられる。
以前は先生や高石喜美子さんとご一緒することが多かったが、ここ2、3年は私1人での参加になった。昨年は12月4日、鎌倉漱石の會60周年記念事業の一つである「121回漱石忌例会」に参加させて頂いた。
円覚寺塔頭・帰源院はかつて漱石が病治療のため逗留して名作「門」を著した由緒あるお寺です。
内田茜江 (孫)内田かおる
河井酔茗と祖父との関係
河井酔茗に明治37年12月に牛込清風亭での新体詩同好会に呼んでもらったことから付き合いが始まりました。その場に北原白秋や昭和女子大の創立者の人見東明など出席していました。祖父が亡くなる昭和20年まで続きました。祖父は蔵書家で、文庫を全巻コレクションし河井酔茗の蔵書収集にも関わっています。
祖父宛ての酔茗の書簡は100通を超しています。父宛ての河井酔茗からの書簡は、昭和37年、娘さんを見せに遊びに来なさい。という娘が私です。写真も残っています。
融氏とは、昭和56年に島本久恵に卒論で、伊良子清白の書簡をテーマにするのでということで、ご挨拶に伺ったときにお会いしました。和服姿で今でも目に焼き付いています。押し入れに入り切れない縛った雑誌や本が積んであって、整理するのが難しいと久恵さんが仰っていたのを思い出します。カルピスとカステラを出していただいたことも印象に残っていました。
3年位前に河井酔茗の書簡を研究していいですかとお手紙を書いたさいにそのエピソードが昭和を感じておもしろいと返信でした。河井酔茗や文庫派の人のことは、祖母や父から小さいころから聞いていたので懐かしいです。もう一度中目黒のお宅へ行ってみたかったです。今度島本邸に行かれる際はお供させて頂ければ有り難いです。河井家は酔茗が上京した折、学生や文人のサロン状態であったそうです。中目黒の家も文人が訪れていたのでしょう。子規庵のように保存できないのが悔しいです。コロナ禍がなければ私の家にある資料の事もあるのでご相談に行くつもりだったのですが遅すぎましたね。とても残念です。
幼いころから河井酔茗や文庫の話をよく聞いていたので、驚いてしまいました。祖父は、女性時代に「白秋氏初期の短歌」「鳥羽に清白を訪ふ」など書いていました。河井酔茗の書簡や文庫のことを整理しているところなどで困ったことがあれば、協力します。
明治39年3月の写真や清白夜雨生誕50年祝賀会の写真や文庫会、夜雨祭の写真、昭和18年東中野の日本閣で行われた文庫会の写真持っています。文庫会開催の葉書またその時のものらしい日本閣の紙のランチョンマットが残っています。日本閣だけに日本地図が書いてあり朝鮮半島、台湾も描かれているのが時代を感じます。
群馬県・桂昌寺 小笠原えい子

川場村歴史民俗資料館 (元小学校校舎)

川場村 桂昌寺
丁寧な説明のお手紙読ませていただきました。
先ず平成十五年に父が亡くなってから、この桂昌寺には住職はいません。私は寺の維持や管理の雑用をしております。島本先生はお墓参りにいらした時にご挨拶した程度ですので、先生の記念館とかはお付き合いされてきた方々で良い方法にお決めください。私から助言するようなことは何もありません。
亡き母が、きち女と親しく子供時代を過ごしたので世に広めようと力を注いでいましたが、私は詳しくは知りません。きちさんに関する品は資料館にて展示していますが、資料館の方によると島本先生が、きちさんに関する品々を大事なものとして保管されているそうです。
もし遺品の中にきちさんに関する品が見つかりましたら桂昌寺に送っていただけると有り難いです。
送料やお世話している方々の費用にお使い頂ければと少額同封させて頂きます。
よろしくお願いいたします。
日本近代文学研究者 石原深予
ゆずり葉の会のホームページを見て連絡を頂いた。女性作家・尾崎翠さんを研究している大学の講師です。島本融蔵書の中に「女子文壇」大正期の蔵書があることを知り島本融先生宅を訪問したいとのことでした。河井酔茗の書簡を調査したこともあるという近代文学の研究者である。明治38年、「女子文壇」は河井酔茗によって編集された。この道を追求される研究者にこれらの蔵書が生かされることを願う。蔵書は全て近代文学館に収められることになる。
島本ゼミは充実した人生の一コマ 内田さきほ
元島本ゼミ生である。ご逝去からおよそ1年が経過していたがお手紙を差し上げた。中田さんの協力で車で小平霊園まで案内し花を捧げお線香を手向けた。この日横瀬隆雄さんから、先生に贈られていた新米が今年は私の所に贈られてきたので墓前にお供えすることになった。学生時代は、先生宅のお留守番やお手伝いをした一人である。島本ゼミでの学生生活は充実したかけがえのない人生の一コマであると懐かしんでいました。
青森でゼミ合宿 小川展子
第10回跡見学園女子大学で島本ゼミ生です。ゼミ合宿を実家(青森県七戸町)で行われたという。友人から先生ご逝去の話を聞かされとても驚かれた。お亡くなり方がお気の毒過ぎてならない。ご結婚されたことも全く存じませんでした。帰郷してからは年賀状のやり取りをしていたがその年には届かず気にされていたという。一日も早く納骨がされるようお祈りしています。そして偲ぶ会が実現しますようにと記されていました。
47年ぶりの再会 小野満治子
小野さんと出会ったのは島本先生の研究室。いかにも跡見の学生さんという感じの先輩でした。その後お会いすることはなかったが、先生からは結婚され広島にお住まいと伺っていた。2019年のある日、先生から「小野さん達が貴女に会いたいらしい」と連絡がきた。小野さん達が訪問された時、私(吉川)の話が出て、先生から「榎本さんならもう何十年も訪問してくれて庭の掃除や台所の片付けをしてくれる」という話を聞いたそうです。間もなく47年ぶりに先生宅での再会を果たした。その後コロナ禍に入り、またの再会を楽しみにされていましたが叶いませんでした。小野さんからは困った時いつも助言を頂き励まされました。
訪問時には手作り料理持参 河井典子
先生とは出会いから半世紀に亘って交流が続いた。その中で約10年間、庭掃き、キッチン掃除,急を要する買い物、一週間に2,3度通うこともあった。常に家庭料理を持参し先生に喜ばれていた。
仕事の都合で十分に先生をお助けできない期間があったが正月や両親の命日には友人と共に訪ねた。
令和3年8月先生ご逝去後、9月10日の臨海斎場での荼毘に付き添い、令和4年9月26日に雑司が谷霊園墓地の清掃に参加。令和5年1月と8月に「酔茗碑改修」の相談のため内田、榎本と昭和女子大を訪問。令和5年9月29日 小平霊園 三回忌供養に夫婦で参加する。
大学入学以来長きに渡り先生と交流されお助けしました。
夢二の原画や美術書の行方が心配 金子章子
先生が海外美術視察の時、榎本と交替でお留守番をした。梯子をかけて屋根に這い上がり樋が詰まらないように朽ちた葉をかき落とす。竹の間引きも出来る稀な存在で先生に重宝がられた。昨年4月、ホームページを見て先生のご逝去を知りました。長年の掃除通いで島本邸の内部の様子、美術書や蔵書についても大変詳しい。中でも夢二の絵を一番心配され「必ず見つかりますように」と記されていた。
先生が頼りにしたパソコンの先生 金子秀子
金子秀子さんは跡見学園女子大卒業生、元パソコンインストラクター。よく先生のパソコン修理や操作指導で訪問、すぐに解決して職場に戻られた。当時先生宅でお見かけしたこともあったがお名前は存じ上げず、挨拶を交わしただけでした。先生「もうすぐ金子さんは軽井沢に引っ越すんだ」、私「じゃ、故障したらどうするの?」、先生「どうしようか」と会話した記憶がある。「供養と顕彰」のウェブサイトを見てメールをいただき、あのとき、食材を持参して料理をしていた私が「榎本」だったと気づいたそうです。文章力とパソコン駆使能力は抜群。これから始める予定の島本融記念文集の編集者としてご協力をお願いしたいと考えている。
久恵お母さまに信頼され 桑田恵美子
「お庭掃き」と称する先生への家事支援は桑田さんに始まる。特にお母さまの島本久恵さんから頼られ作家の資料集めに随行、地方へ出かける際は介助する。キッチン掃除から庭掃除、買い物、雑用までこなす。何事にも細かい気遣いをされ誰からも信頼された。小平霊園、桂昌寺には年忌の度に先生と一緒に訪問する。多くの支援を約8年間にわたり続けられた。久恵お母さまから愛され高い信頼を得た協力者です。
島本ゼミはかけがえのない宝 小山美知代
跡見学園女子大学で美学美術史を学び卒論は「フェルメール」を勉強したことが今のご自分を支えている大きな力になっている。島本ゼミで学んだことがその後の人生の中に生かされることこそ尊くしかもかけがえのない宝だと記されていました。先生の独特のユーモアあふれるお話しぶりも印象深く覚えている。友人同士でのお宅訪問も先生のユニークさに思わず笑いが出る忘れられない思い出の一つだそうです。先生との年賀状のやり取りだけはずっと続いていたそうです。流麗な筆字でお手紙を頂きました。
素晴らしい師弟関係 高石喜美子
高石さんは総理府に勤務、夜間は東洋大学で島本先生の美学を受講されていた。私は先生の授業の助手として東洋大に随行して高石さんを紹介された。その後半世紀に渡って交流を深めた。「帰ろう会」では、美術館や古寺を巡りの感想を温泉宿で語り合った。楽しみながら美学的観点から学ぶことが多く充実した機会になった。先生宅へは酔茗忌(1月)、島本久恵忌、惠也忌(6月)の訪問が恒例行事になった。供物、百合の花を供え、持ち寄った料理で先生を囲んだ。新宿にお住まいで漱石山房記念館開設準備に尽力された。最近はご高齢による病気で療養されていたが、先生は亡くなる寸前まで漱石関係の資料を見つけては高石さんに郵送していた。素晴らしい師弟関係を続けられた。
顕彰事業に応援メール 高木 恵
闘病生活を送られていたお母様が22年に亡くなられました。宣告されて以来、お母さまと娘で充実された日々を過ごされたようです。そのような中でも島本先生の顕彰事業にご理解を頂き色々な面で応援メールを頂ました。ホームページを見て先生のお人柄を知りいっそう学生時代に思いを馳せられたとの事です。
島本先生と旧友同士 故高橋新三郎
島本融先生と高橋新三郎さんは旧友同士。「島本君、島本君」と話しかけ仲の良いお二人でした。また鎌倉漱石會の会員であり帰源院での例会には栃木から出席されていました。念入りに黙々と資料に目を通される勉強家でした。新宿での講演会(四谷)にも泊りがけで参加、その折りお世話されたのが高石喜美子さん。終了後、島本先生、高橋新三郎さん、高石、私で新宿中村屋のチキンカレーを頂きながら談笑し「今度、栃木を案内するから来て欲しい」とご招待いただきましたが、島本先生の一年前に逝かれました。(ご遺族から「故人の名前をご自由に使ってください」とご連絡をいただきました。)
ご結婚祝いに訪問 田中加代
地方の美術館や寺社を巡る「帰ろう会」でお会いしてから半世紀にわたる友人である。香蘭女学校の学生であり、同校教師である植松明石先生と共に参加された。植松先生は、跡見学園女子大の教授となられ八重山諸島や中国の民俗文化を研究された。結婚後も電話や手紙で先生のご様子を確認された。「先生もお歳なので皆でお会いする機会を作ろう」と考えていた矢先のご逝去でした。ご結婚祝いの訪問が最後となりそれから35年後の訪問は、島本邸の見納めの令和6年2月10日であった。
掃除と差入れに7年間訪問 利倉栄子
2010年、先生の念願であるオーバーアマガウのドイツ旅行に付き添われた。私が島本邸を定期的にお手伝いに通っていることを知り「お庭掃き」に一緒に参加するようになり7年位続いた。キッチン掃除やお庭掃きを分担し協力し合えた。その度に彼女は手作り料理を2,3日分準備してくる。中目黒駅に到着するや「先生、必要なものは何ですか」と電話する。二人で日用品や食料を買い揃えた。この頃病気療養中の夫を自宅に残しての訪問だった。先生の史跡巡りで修那羅峠を二人で随行し別所温泉での宿泊が最後の旅になった。間もなくコロナ禍に入り予約していた常楽寺の「凩」を観にお連れすることは出来なかった。臨海斎場では利倉さんが持参したドイツ旅行の写真を棺に捧げた。
供養と顕彰事業を応援 寺田明子
写真を撮ることが趣味というよりプロ並みのカメラマンです。四季折々の花々の写真をカレンダ-にしています。7月はノウゼンカズラ、淡い色の花ですが、緑の葉に映え鮮やかです。彼女の作品は部屋の片隅で私の仕事をじっと見ているかのようです。8月は「芙蓉」。島本先生の供養と顕彰事業にご理解を頂き何度も応援して下さいました。東京と伊豆を行ったり来たりの生活でお忙しい中でもご意見を寄せて頂き励まされました。「一紫会便り」の先生のご逝去のお知らせが皆さんに届きますようにと添えられていました。
美学概論を受講し美学に夢中に 永木裕子
島本先生ご逝去から約1年半後に後輩から顕彰事業を知らされた。ご高齢ゆえに心配していた。群馬県立女子大学の1期生であり、島本先生の美学概論を聞いてから美学に夢中になった。40年以上も経つが美学の授業の中で輝いていた先生のお姿が今も存在しています。ご家族の眠る霊園に納骨される日を
願っています。お母さまが戦前昭和女子大学の予科で学んでおられたそうです。
島本先生のご両親様御三人の残された遺産が生かされることを切に願います。とのお葉書を頂きました。
数十年ぶりの墓掃除に尽力 中田さなえ
ホームページを見て先生のご逝去に驚いたという。先生の研究室を訪れては話し込み、先生宅を訪問することを約束しそのままになってしまったという。昨年7月猛暑の中、「自分で出来ることをしよう」と考え小平霊園の墓地を掃除することを決心。片道1時間以上かかるところを数回通った。墓は草木に覆い被され大きい木は石材屋さんを頼んで伐採、墓石を磨いた。また河井家の雑司ヶ谷墓地も、河井、榎本と一緒に数十年ぶりの掃除をしてくださった。9月、彼岸参りの時はあいにくの雨、参列者を駅まで車でピストン輸送を受け持って頂いた。
ご高齢の先生を案じて 沼尻真理子
島本ゼミで一緒に学びました。時々電話を頂き、学生時代の思い出や友人のことを懐かしんでいました。独身の先生の身を案じて時々お電話を頂きました。昨年9月にやっと島本先生ご逝去のお知らせをすることが出来ました。顕彰作業への励ましを頂きました。
美学美術史の世界に魅了され 本多久仁子
一昨年の年賀状はお返事を頂けず今年の年賀状は戻ってきてしまった。島本先生の事が大変気になり心配していた。本日「一紫会便り」を拝見し驚きと何も知らず何のお力にもなれなかったという後悔の念に駆られています、とお手紙頂きました。
美学美術史学科に入学してから島本先生の世界に魅了されゼミでもお世話になり、卒業してからもお手紙、年賀状での交流は亡くなる前年まで続きました。先生の顕彰事業に賛同を頂き、応援メールには一日も早くご家族の元へ納骨できるようにと記されていました。
お彼岸の墓参に参加して 広瀬晴美
群馬県立女子大学では美学入門から卒論まで島本ゼミでご指導を受け、その後成城大学大学院へ進まれました。広瀬さんに初めてお会いしたのは令和4年9月18日のお彼岸のお墓参りです。土砂降りの雨の中を参加されわずかな時間でしたが学生時代の思い出話になった。「島本先生のお話の中に榎本さんの事が出て来て、ここで会えたなんて不思議で懐かしい」と話してくれました。「あの嵐の中のお参りはそこだけ別の時間が流れていたようで記憶の中では映画のようになっています」と感想を書いてくださいました。島本先生を慕いその生き方に感銘を受けられたそうです。
お墓の余白は何を語る 山本裕美
親しい同級生であった裕美さんから心の籠った便りを頂きました。学生の頃の記憶がとても鮮明です。「河井酔茗の名も詩も知っていたので島本融先生が御次男である事に驚き文学ではなく西洋美術史・・・と不思議に思った」(中略)「鮮明に記憶しているのは『余白について』という題での授業、東洋と西洋の空間認識の違いについても言及され「時間が足りないよね」と完全な結論に至らなかったことを残念そうに仰っていました。この年になっても忘れられない授業でした」。
「先生のお墓の余白は何を語っているのでしょうか。皆様への伝え切れない感謝の念でしょうか。切ない写真を拝見してそう感じました。いつかお目にかかれる日があると良いですね」。
顕彰事業に賛同 若山順子
島本先生には学園祭の折りお世話になったことが楽しい思い出になっているそうです。友達から先生ご逝去の知らせを聞き顕彰事業に賛同のメールをいただきました。企画書の中のカラー写真に想いを馳せ先生を偲ばれている様子が浮かんできました。
「先生のご意思が実現の運びとなりますことを心からお祈り申し上げております」と激励の言葉を賜りました。
機転と行動力で先生にご協力 渡辺照美
島本先生と榎本は、「浅見真州の会」のお能「屋島」に招待して頂いた。先生はお能の道に進まれた彼女を応援していた。その後、先生から色々な面で渡辺さんにお世話になっていると聞かされた。本の出版の際には、日本橋の老舗まで出向いて材料を選んだ。扉、見返り、表紙、帯、装丁については渡辺さんの美的センスが必要とされたという。
庭の大木の伐採で植木屋さんを手配し、水周り修理も素早く連絡を取り復旧に力を貸してくれたという。顔の広さを生かし抜群の行動力があり先生から頼られていた。また雑司ヶ谷霊園まで高齢の先生を車で送迎したこともある。
2024年4月以降
お手紙やメッセージをくださった方々
(編集の都合上、長文のものは抜粋させて頂きました。 敬称略 )
石原深予 令和6年5月10日、同22日
私にまで島本先生の遺品から形見分けを頂けますこと大変恐縮致します。まことにありがとうございます。『塔影』の1950年代の貴重な号、また70年代の号には書簡の翻刻なども掲載され研究的にも有り難く存じます。
酔茗詩碑、新体詩祖の碑の「除幕式のしおり」のような資料は重要で貴重なのですが、どこで見られるか分からなくなったりしますのでpdf化して公開されたら有り難いかと存じます。
島本先生の貴重な遺品がよいかたちで保存されるのに皆々様がご尽力されましたこと、私も、今後も研究者として仕事を続けていきます上で見習わせていきたいばかりです。い
「女子文壇」も閲覧できましておかげさまで収録作品すべて一次資料から確認して収録できました。本当にありがとうございます。今さらながら島本融先生にお会いしたかったです。
若き日に河井酔茗が投稿作品を取り上げてくれたとき、尾崎翠はとても嬉しかっただろうと思います。その息子さんにあたられます島本先生と島本先生の教えを受けられた榎本さんに尾崎翠が『女子文壇』に投稿していた大正時代からはるかに時を隔ててこのような形でこの本にご協力をいただきましたことも不思議なご縁でしたことと存じます。
・・・・
令和5年1月、奈良女子大近代文学専攻・研究者石原さんからメールを頂きました。「女子文壇」(婦人文芸社)大正3年、島本融所蔵の閲覧を希望とのこと。しかし島本融先生は既に亡く、ご自宅が東京家裁の管理下になっていたため管財人にその旨をお伝えしました。
令和6年5月、石原深予編『枯草のクッションを敷いた古馬車 尾崎翠全集未収録作品他』(幻戯書房)から刊行され、この度ご恵送賜りました。(榎本記)
内田さきほ 令和6年4月13日
昨日はお疲れ様でした。本当に穏やかな日でした。榎本さんには先生に寄り添って頂き感謝していると思います。「塔影」「浪曼群盗」をありがとうございました。私は当時、先生に「下さる葉書に詠まれている歌や詩をまとめて本にしたらいかがですか」と言ったのですがいつもはぐらかされていました。形見分けのお品ありがとうございました。大変嬉しく拝受いたしました。とても大変な作業だと思います。ありがとうございました。「詩碑完成の集い」のご成功を心からお祈り申し上げます。
遠藤 四郎 令和6年4月5日
この度はわざわざお送り下さいまして誠にありがとうございました。小生90歳になりまして日まし老齢に拍車がかかり老いる一方にて満足なご返事も書けない程になりました。
島本先生の熱心な創作活動は確かにこの老いの脳裏にも色濃く記憶を留めております。かずかずのご配慮に対し全くこのような無様な返信にて恐れ入りますが何卒ご寛怒のほどお願い申し上げます。島本先生のご冥福をお祈り申し上げます。皆さま方のご協力に深く御礼申し上げます。
尾関 幸 令和6年4月1日
東京学芸大学で教員をしています。ここ数年年賀状が届かなかったためもしやと思っていましたが・・。島本融先生は、非常勤講師として東京学芸大学小金井キャンパスに美学の講義の為週一度通って下さいました。退職の折りは人気者だったためお別れするのは学生にとっても名残惜しく最終講義の後はイタリアンレストランで送別会を行ないました。
島本融先生が勇退されてから「美学」を講じる人材を見つけるのに苦労致しました。2017年度からは東京大学美学研究室を出られた島本先生の後輩にあたる方です。「その方なら間違いない」と島本先生から太鼓判を押して頂きました。何といっても美学の世界では伝説的存在です。
お勧め頂いた美学の講座はこれからも守り抜いていく所存です。
「塔影」と同封頂いた「ゆずり葉の会」の活動内容を拝見致しました。教え子達が手分けして炊事、掃除のお手伝いをするなど温かい雰囲気に包まれて晩年を過ごされたことが分かりほっと致しました。コロナ禍の最中にお独りで旅立たれたということですが大勢のお弟子さん達が邸宅ご蔵書をしっかり守る活動をされ、そうした傷ましさも十分に癒されたことと拝察します。昭和女子大構内の新体詩の碑を蘇らせる事業等、たとえ身内であってもとても出来ることではありません。皆様の活動には尊敬と感謝の気持ちでいっぱいです。私のようなものにも「塔影」をお分け頂いたこと、幾重にも感謝致します。末尾になりましたがゆずり葉の会の皆様方のご健康を心よりお祈りいたします。
小野満治子 令和6年4月20日
新体詩祖の碑、河井酔茗詩碑披露に参加して
色々お世話様でした。あなたのご主人様はじめ、全て初めてお目にかかる方々でしたが、ゆずり葉の会報に何度も登場するかたがたばかり。前からの知り合いのような打ち解けた気持ちでお話をうかがえたのはとても嬉しかったです。
先生のお名前が刻印された解説版と二つの詩碑。設置の場所もとても良く、想像していたよりも大きくて立派で、深く感動しました。この思いは友人にもお伝えしました。これも榎本様ご夫妻のご尽力のおかげ、心からお礼を申し上げます。有難うございました。
数佐知代子 令和6年4月1日
若葉の萌えたつ季節になりました。昨日ご丁寧な島本先生の「形見」分けのお手紙と先生への支援、没後の経過などのお手紙を頂きました。ありがとうございました。私は卒業後、年賀状のやり取りだけをさせて頂いただけでしたのにこのような大切なお品を戴き恐縮しています。私も年齢が重なりましたがお送り頂きましたお品は大切にさせて頂きます。「ゆずり葉の会」の皆様に宜しくお伝えください。季節の変わり目皆様お身体お大事になさって下さい。
金子秀子 令和6年4月8日
先日は、「塔影」をお送りいただきましてありがとうございました。また顕彰事業の経過やお心のこもったお手紙、感謝しています。大勢の方々への送付作業だけでも大変なご苦労だと思います。じっくり読ませて頂きました。みな様の島本融先生への溢れる思いと大勢の生徒さんから愛されてきた島本融先生のお姿が思い起こされて心に染み入ります。先生のお宅が少しずつ形を変えていくことは寂しいですが、ご一家の長い歩みは様々なところで息ついています。
よく島本先生に言われました。「海外旅行にでも行って見分を広めてくればいいのに」と。
そちらは彩の季節ですね。咲く桜、その美しさを存分にお楽しみください.
久保 光志
奥様からのお電話 令和6年3月30日
久保光志先生は、跡見学園女子大に1980年代に10年間在籍し美学美術史学科の教授として指導されていた。美学美術史学科が無くなると同時に引退されたという。島本先生は先輩にあたりよくお世話して頂いた。お二人で「跡見の美学美術史学科を心配しもっと盛り上げよう」話されていたそうです。69歳で逝去されました。
二人は大変仲が良く島本先生のことは常々話に出て来るので良く聞いていました。「『塔影』を頂きありがとうございました。ずっと大切にします。島本先生のご逝去を知りとても悲しいがこのようなお知らせ頂いて嬉しい気持ちです」。近く久保先生の教え子の皆さんがご自宅においでになると楽しみにされていました。その際には島本先生の思い出など聞いてみようと思います。と話されました。
久保先生が亡くなられても教え子の皆さんが今なお奥様と交流されていることを知り温かい気持ちになりました。久保先生のお人柄が偲ばれるお電話でした。(榎本)
桑田恵美子 令和6年4月13日
大変な作業ごくろうさまでした。久恵お母さまをお助けし、日本文学について沢山のこと教わりました。また高齢のお母さまの取材にはお供をさせて頂き多くの知識を得られました。ある時期は日常的な手伝いをさせて頂きながら交流を深めました。
ご案内状、及び詩碑補修ご披露の件昨夕お手紙拝見しました。お疲れ様です。
今、広島に帰省しており、膝の調子も余りよくありませんので欠席となりすみません。近代詩、学祖
の先生方のお話や皆様方のお話もお聞きしたかった。本当に残念です。ご盛会を!
五島 眞紀 (家族が電話を受けましたが直接お話が出来ていません)
曽田恵美子 令和6年3月29日
3月29日、曽田恵美子さんからお電話を頂きました。
『『塔影』頂き有り難うございました。大切に致します。私は東洋大学文学部で島本先生の講義を受けていました。その講義は印象深く今でもよく覚えています。その時代の人間の生きる真髄を美術史、美学を通してご指導頂きました。すると「その当時、お手伝いをされていたのは榎本さんではないですか。その様子を覚えています」と仰いました。半世紀も前の事であり、記憶を懸命に呼び戻してみました。突然の事で驚いたが記憶して頂いていたことが嬉しかった。すると先生がスライドを映しながら講義している姿が次々浮かんでは消えた。生徒さん達は一日の仕事を終えた夜学部の授業であり皆さん真剣そのものだった。
曽田さんは卒業後、それほど先生との交流はなかったが、葉書のやり取りをしてお元気なご様子に安堵していた。しかしここ数年、年賀状も途絶えていたので心配していた。「私の葉書を、先生が今まで大切にして下さった事が嬉しい」と話されました。
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島本先生は、昼間は跡見学園女子大で講義、夜は東洋大学文学部(夜間部)で美学美術史の講義をされていました。私はその講義のスライド上映のお手伝いとして同行していました。
この冊子の随所に高石喜美子さんが登場します。曽田さんと同じく東洋大で私と出会いそれ以来島本先生を交えた深い交流がありました。曽田さんと高石さんは東洋大学の同窓生だったはずです。(榎本)
高木 淳子 令和6年4月16日
昭和55年に跡見学園女子大美学美術史科を卒業致しました。この度は島本先生の遺品をお送りいただきとても嬉しくそして驚いております。先生とは、一般授業を通じ島本ゼミに所属しておりました。また週末には中目黒のお宅で有志による自宅ゼミを行ない大変お世話になりました。
当時、先生宅は、トイレ以外は中庭の井戸しか水はなく、また電話もなかったので連絡は常に手紙か電報、葉書で行うといった調子でした。今となっては良い思い出です。お世話頂いた皆様には何とも大変であったろうと思います。本当に感謝致します。
高木 恵 令和6年4月1日
待ちに待ったそめいよしのが開花し何となくうきうきする毎日でございます。この度は思いがけず貴重なお形見を頂戴することになり恐縮しております。榎本さまをはじめ島本先生を尊敬していらっしゃる有志の方たちの今日までのご努力と熱情に嬉しく思っております。島本先生もお喜びの事とお察しいたしております。皆様のお疲れが出ませぬようお祈り申し上げます。まずはお礼まで。
瀧田 茂子 令和6年4月8日
「塔影」を拝受、私にまでお送り下さり有り難く感謝申し上げます。
川場村歴史民俗資料館には20年間勤務しました。江口きち女の資料のことで島本先生に数回お目にかかりました。「江口きち女資料室」には河井酔茗、島本久恵ご夫妻のお写真がありいつもお目にかかっています。
久恵先生の「長流」は展示ケースの中に収められています。品格のある文章に夢中になって読ませて頂いた日々を懐かしく思い出しました。
融先生を皆々様で支え合いお隠れになった後もお墓の清掃、3回忌の集いなど全力でお尽くし下さったこと、融先生も安らかにお眠りになっている事と存じました。多少のご縁と想い出に感謝を込め川場の空よりご冥福をお祈り申し上げます。そしてゆずり葉の会の皆様にも深く感謝申し上げます。
お元気でご活躍下さますよう心よりお祈り致しております
田中加代 令和6年4月16日
まことにまことに残念ながら別の用事が入っていて欠席致します。2月10日、島本邸見納めの日、小さな椿の木を3本頂きました。3本中2本がどうやら根付いたようです。やがて何年か経って花が咲いてくれたら嬉しいです。また次の機会に宜しくお願いします。
田畑理恵 令和6年4月18日
この度は島本先生のお形見をお送り下さいましてありがとうございました。
島本先生には東京学芸大学でご指導を受けました。その後は年賀状を楽しみにしておりました。
お亡くなりになったことは友人が知らせてくれましたが、何も出来ずただ心の中で感謝の気持ちをお伝え致しました。お近くで先生を支えていらっしゃつた皆様に感動致しました。お知らせ下さいましてありがとうございました。
辻 俊 行 令和6年4月2日
この度は島本先生が独り静かに亡くなられた経緯、その後の「供養と顕彰のゆずり葉の会」の皆様には大変お疲れ様でした。そして形見分けの2冊の冊子、その後の経緯や写真をありがとうございました。大切にさせて頂きます。
私は東京工芸大学で島本先生の美学の授業に参加させて頂きました。週に一度の授業でしたが、島本先生の言語は哲学詩人で余すことなくその言語をノートに書きまくりました。
私のDVDを先生に送らせて頂いたところ、ご丁寧な感想文と虎屋の高級羊羹木箱入りを送って下さいました。感謝、感謝です。私はお礼に静岡のお茶を送らせて頂きました。そのお茶が届いたのは、お父様の命日であったと先生はとても喜んで下さいました。卒業後も年賀状や詩集を送って下さいました。この数年、年賀状も届かずとても心配しておりました。
ご報告を受けて島本先生の仕事、生を理解、感応したく以下の本を買いました。「午後のメカニズム」「人と思考」(3冊)「芸術と真実」美術史の理論と方法のために。熟読、勉強したいと思います。
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2023年の年賀状のコピーが添えられていました。パウルツエラン・白い石・魂・円環・平和・宇宙・空。詩「あかるい石たち」3枚の写真が添えられています。島本先生に視て貰いたかった作品でした。と記されていました。(榎本)
寺田 明子 令和6年4月16日
三寒四温というより何だか気温の変化の大きい昨今です。先生の「塔影」と詳細なご報告をありがとうございました。ここに至るまで大変な思いをなさった事とお察しいたします。私事ですが、母が2月に急逝致しました。先生の一つ下です。目下役所の手続きなど慣れないことでウロウロしております。その大変さを実感しております。本当にご苦労様でした。
そして詩碑完成おめでとうございます。皆々様のご努力のおかげです。
利倉 栄子 令和6年4月1日
「塔影」が届きました。見ただけで先生の事、中目黒のお家が思い出されます。ヨーロッパ旅行の後初めてお訪ねした門の表札は2枚、「河井」「島本」とあったことなども思い出しました。
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利倉さんは、私に島本先生のご逝去を最初にお知らせくださった方です。高齢の先生を心配し、以前から目黒区包括支援センターに見回りをお願いしていました。もうすぐ3回目の命日が参ります。
6月7日から6月19日まで「利倉栄子展 彫金・銅板打出し展」が地元の千葉市で開催されます。
先生は利倉さんの作品展には積極的に応援しておりました。ご存命でしたらお出かけになっていたでしょう。 (榎本)
永木裕子 令和6年4月17日
昭和女子大・新体詩祖の碑・河井酔茗詩碑改修工事ならびに解説板設置の完成まことにおめでとうございます。一年がかりの取り組みとのこと本当に大学側の副学長先生のご起稿を頂いて、島本融先生やお母さまお兄さまのお名前を一緒に残すことは喜ばしいことと存じます。ご苦労様でございました。
当日、残念ながら参加できませんが、事前に同校を訪れて訳を話し二つの碑と解説板を見学させて頂きました。総務課の比嘉様にご案内頂きました。有り難うございました。
中 山 將 令和6年4月8日
この度は、故・島本融先生の終焉としての供養等について有志の方々のご尽力の経緯をお知らせ頂き有り難うございました。身寄りの無い故人の晩年をみなさまが何かとお世話され後片付けの労を惜しまれなかったことがわかり感銘を受けると同時に故人にとっての幸いを思いました。
加えて思いもかけず形見分けの一人に数えられる幸いに与りそのためにお手数を煩わせたことなどありがたく厚く御礼申し上げます。
私は、故人とは、大学と専攻を同じくする後輩に当たる者です。あることから季節のご挨拶から始まり時に抜刷りを頂くという間柄でした。先年、長く続いた年賀状が絶え、あるいはと思ったことがやはりと 分かり納得した次第です。頂いた形見と共に故人の縁を偲び美学の学統を振返りたいと思っています。終わりに故人のご冥福をお祈りするとともにみなさまの今後の幸いを祈念する次第です。
七瀬あゆこ 令和6年5月25日
過日は、島本融氏のご逝去とその後のことを詳細にわたりお知らせくださり、加えて形見分けの光栄に預かり恐縮しつつも心より感謝申し上げます。島本氏とは私の両親(木幡順三,瑞枝・美学者)が氏と懇意にして下さった関係で一人っ子である私と繋がりがあります。ごく小さい頃(3~5歳?)、杉並区高井戸にあった住まいを「島本さんのおじちゃん」はよく訪ねて来られました。子供好きでいらしたのか、いつも私においしいお菓子を手土産に持ってきて下さったのですが、それが決して子供だましではない今でいう「プチ・ガトー」でその夢見るような造形と本格的な味に魅了されたことは記憶の奥深く今も鮮明に息づいています。 ―中略―
過酷なコロナ禍の日々、文庫(アーカイブス)プロジェクトはしばしば保留となる中、氏との再会がかなうことを願っていましたが、最後に届いた年賀状には「おじちゃんも足腰弱った」と書かれており、心配していました。そして翌年お出しした年賀状が戻ってきてしまったので「おじちゃん」に何かあったらしいと胸騒ぎがして不安は募るばかり、どうしたら消息がわかるものかと考えあぐねる日々が続きました。
また母が晩年美学から少し方向を新たにして文芸評論に携わっていた関係で日本近代文学館の賛助会員をしていたので、文学館の会報が今も届くのですがそこの記事に、島本家の資料一式の寄贈の件が記されていたことも拝見しております。
私は両親とは少し趣の異なる方面に進み、作曲、編曲家、ピアノ奏者として長年活動してきました。
毎年3月後半から6月頭位までは楽譜出版のための作編曲の原稿書きや校正などの繫忙期であり、なかなかお返事もできず失礼いたしました。しかし、一人っ子ということもあり両親の影響を大きく受けておりますので両親が築き遺したものを生かしてゆくことは、やはり私の役割と感じております。文庫(アーカイブス)開設プロジェクトはコロナ禍による足踏みを経て、今まさに構想を形にすべく再び一歩を踏み出そうとしているところです。「おじちゃん」との再会に間に合わなかったことは残念ですが、きっと空から応援してくださっていると思います。男性の平均寿命を考えればとても長寿でいらした氏が、今なおたくさんの方々の思いを集めておられること、さすがは「おじちゃん」一家、という気持ちです。・・・・
仁科 又亮 令和6年3月29日
前略、島本先生のことを数年前から年賀状が届かなくなりました。どうなさったかと案じておりました。島本先生とは、東京工芸大学芸術学部文学研究室に同室しておりいろいろと先生から薫陶を受けました。先生とは七歳違いの大先輩ですから日々緊張して接しておりましたが、何のトラブルを受けることなく終わりました。先生のお兄様は優秀な方だったとかを承っておりましたが、お父上が河井酔茗だとは全く知りませんでした。そのことを知ったのは島本先生の最終講義の際でした。とにかく驚天したものです。最終日、途端に敬意を表したのです。
目黒のサンマは凄い、家光の鷹狩りのエピソードだとかそんな会話をして雑談を楽しんでいました。
房州から金目鯛を送って差し上げたら、目黒駅近くの寿司屋に持ち込み東京大の同級生と一盃やったとの礼状を頂いたが懐かしい思い出でが沢山あります。
ある時「江口きち資料集成」も頂きました。変人同士で仲良く教員生活を終えることが出来ました。同封した研究室の看板「島本研究室」をお送りしますのでどうか偲んで下さい。
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令和6年の年賀状が同封され島本先生の代わりにお読みくださいとありました。
仁科又亮先生からの令和6年度の年賀状は、A4サイズ用紙に書かれた新年のご挨拶であり島本先生にお届け出来ないことが残念です。(榎本記)
林 典 子 令和6年4月2日
群馬県立女子大学を卒業しました。島本先生の形見分け「塔影」が届きました。ありがとうございます。島本ゼミでの友人から榎本さん達のご活動についてはいくらかお聞きしていました。何もご協力できず申し訳ありません。いろいろとご苦労があったと思いますがこの2年半の経過とお知らせ下さり大変有難く思っています。先生とは年賀状等で近況をお知らせするぐらいでしたが大学時代の思い出は大切なものです。取り急ぎ御礼だけでもとペンを取りました。どうもありがとうございました。
平野雅俊 令和6年3月29日
平野雅俊先生からお電話を頂きました。
元東京工芸大学で教授として写真関係の講義をしていらっしゃいました。島本先生とは同僚でありお互い信頼し合った仲でした。この数年、どうされたかと島本先生を心配されておりました。
沼田市にお住まいであり、島本融先生が、川場村の歴史民俗資料館行きのバスが無く困っていた時、融先生をご自分の車で桂昌寺墓参まで案内し、とても喜んで頂けたと言われました。融先生について「江口きち女の関係者」と思っていた。その時まで河井酔茗が父上とは知らずにいたそうです。
「『塔影』を頂き有り難い。年号をみると僕が生まれて10年後に出版された貴重なものである。大事にしていきたい。妻も大切にしている」と話されお届けできて良かったと思いました。懐かしい思い出を聞かせて頂きました。
東京工芸大学では「写真」を中心に講義し島本先生とはよく講義の話や雑談もしたそうです。図書館長を務められていたので写真の価値などについて島本先生から質問されたそうです。
平野先生は、多くの学生や知人の方々と年賀状の交換を辞されたそうで、その時から島本先生との年賀状も途切れたのだろう。その後どうされておるかとお気にされていたようです。「私の年賀状を大切に持って下さっていたことを知り嬉しいです」と話されました。
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島本先生は、度々川場村歴史民俗資料館を訪ねていた。その一室に「江口きち資料室」がある。きち女は、酔茗、久恵さんのお弟子さんである。両氏と交わした書簡、著書や写真も展示されている。1930年酔茗は、女性のための総合文芸雑誌「女性時代」を創刊、きち女は、自然の儚さを詠み、家族や友人、そして苦しい生活を詩にして投稿。先生はきち女の眠る桂昌寺の墓前に花を手向けることが通例になっていた。(榎本)
広瀬晴美 令和6年4月16日
形見分けの折りもほんのわずかなお手伝いしかできずかえってご馳走になり心苦しく思っています。
形見分け作業を共に行ったおかげで皆さんとの交流も出来ました。重ねて感謝申し上げます。
そして二つの碑の完成を拝見する機会を作っていただき感謝します。当日、お天気に恵まれると良いですね。
福田達夫 令和6年5月17日
(奥様からお電話いただきました。)
島本先生とは東京大学美学美術史学科の同級生である。8年前に福田達夫先生はご逝去され奥様からお送りした「塔影」のお礼の電話を頂きました。当時の事を思い出されたのか懐かしいお話をうかがうことが出来ました。
以前、島本先生に「どうされておりますか」とお聞したことがあり、「家の事を心配して教え子が来てくれる」と聞かされ安心した記憶があると仰っていました。私は月に2回はお掃除等にお伺いしてきた、と伝えると労いのお言葉をかけて下さいました。
島本先生は、区の介護ボランティア等の受け入れには消極的であった。しかし高齢であるため区の包括支援センターにそれとなく見守りして頂くようお願いしていた、とお話しました。
福田達夫先生は、東海大学教授でご専門は「音楽美学」。「芸術創造の美学」「日本の音楽家と聴衆」など沢山の著書がある。一部は東海大学に寄贈されたそうです。
私からも島本先生逝去後、相続財産管理人との最初の面会で「蔵書は古本屋に売る」という話が出てショックを受け、河井酔茗や母上の島本久恵の蔵書を何とか残そうと顕彰事業に努めた旨をお伝えしました。
松本 鶴雄 令和6年4月5日
(お嬢様から電話を頂きました。)
鶴雄さんは7年前にご逝去されました。大切な「塔影」をありがとうございました。とお礼のお言葉を頂きました。数日後、松本鶴雄著「現代小説の変貌をたずねて」-近代小説からポスト近代小説への史的省察―が私の元に送られてきました。有り難く受け取らせて頂きました。落ち着いたら読ませて頂きます。
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近代の小説の二極分化の背景
日本でも19世紀後半から連綿と続いていた小説概念に当てはまらないものが今では続々と書かれている。それらは世間でも普通に受容されているかのようだ。一体、小説に何が起こっているのだろうか。
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20世紀の小説方法をめぐって
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新散文芸術、または総合全体小説?
三つの分野に拠る近代理念への考察が如実に記されていました。松本鶴雄氏の著作物は近代文学館に遺贈されたそうです。(榎本)
宮原栄子 令和6年4月2日
島本融先生の貴重なお形見を私共にまで分けて下さいましてまことにありがとうございました。先生を偲び大切にさせて頂きます。先生には私共「姫沙羅俳句会」にもご講演をいただきその時の事を懐かしく
思い出し改めて感謝の念を強くしております。先生のご冥福をお祈りし、又皆様方のご苦労に心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。とりあえずひとこと心から御礼を申し上げます。
ご尽力された二つの碑の完成披露をむかえられましたことを心よりお慶び申し上げます。お集まりの皆様のご多幸とご健勝をお祈り申し上げます。
吉原 敏子 令和6年4月8日
前略 ごめん下さいませ。この度は島本先生のお形見分けをお送り頂きましてありがとうございました。跡見を卒業しましてからは四十数年も島本先生とは疎遠いたしておりましたのに私のような者にまでお心遣いをいただき恐縮しております。先生との思い出を呼び起こしながら拝見させて頂きました。「ゆずり葉の会」の皆様が島本先生に寄り添って最期まで献身的に尽力なされたご様子を伺いさらに御一家のご供養と顕彰の為にお働き頂いていることに深く感銘を受けております。
本来でしたらご供養に墓前にお参りしなければと存じますがすぐに出かける事もできませんので大変失礼でございますが、手持ちの花ギフトを同封いたしますのでお役立て下さいますよう宜しくお願い申し上げます。
ご尽力された二つの碑の完成披露を迎えられましたこと心よりお慶び申し上げます。皆々様のご多幸とご健勝をお祈り申し上げます。
桜も満開になり季節は進んでおります。どうぞご自愛を心よりお祈り申し上げております。
ではまた ごきげんよう かしこ
若山 順子 令和6年4月8日
本日は思いがけず榎本さんからの封書が届き島本先生関連のその後と「形見分け」のことなど詳しい内容のお知らせ頂き気になっていたので大変有難いです。その上私にまで「形見」を頂戴し御礼申し上げます。この先もいろいろご苦労なことと存じますが「ゆずり葉の会」を守り存続させて頂きたいと心から思っています。皆さんには大変感謝しています。ありがとうございました。
新体詩祖の碑、酔茗碑の完成おめでとうございます。関係者の皆様のご尽力のたまものと存じ上げます。
渡辺 照美 令和6年4月18日
島本先生家族の肖像のような塔影詩社の「塔影」の形見をお分け頂きましてありがとうございました。活版印刷の文字も懐かしく拝読させて頂いております。いつも大変お世話になっております。様々な困難の中感謝しかありません。
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お身体の具合により外出を控えていますが。いつも温かい応援メッセージを送って下さいます。島本先生にとっては、良き相談相手であり何事においても頼られた教え子の一人です。特に著書の出版の際は、持ち前の美的センスを生かしてお手伝いを頂いたそうです。(榎本記)
葉月のりこ 令和6年6月11日 (朗読家)
拝啓 紫陽花が美しい季節になりました。
先日はお目にかかることが出来て大変嬉しく存じました。
貴重な「塔影」もありがとうございました。
素敵な詩が掲載されており声に出して味わっております。
またお会いできる日を楽しみにしております。
お礼かたがたご挨拶申し上げます。敬具
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形見分けの作業中、表側に「島本先生」裏側に「葉月のりこ」と書かれた封書を見つけました。
鎌倉漱石の會の菅佐原智治様から以前頂いたメールの中に、朗読家の葉月のりこさんが「朗読の教則本」を出版され、その中に河井酔茗の詩を載せていました。今時の朗読家が河井酔茗の詩に魅了されているのに感激しました。その時河井酔茗のご令息島本融先生への献本をお薦めしました」とありました。
この封書こそ島本先生に贈られた献本に添えられたお手紙に違いない。
令和6年6月8日、鎌倉漱石の會主催で夏目漱石参禅130年記念企画、「新感覚で語る『門』」が帰源院で開催され葉月のりこさんが朗読家として登壇されました。
朗読終了後、(榎本)「葉月さんからのお便りは島本先生が開封した状態で大切に保管されていました。島本先生は、ご覧になられたと思います。「塔影」に酔茗の詩が載っておりますので数冊お渡しします」。すると「私は酔茗の詩が大好きです。ありがとうございます。この不思議なご縁を大事にしたいと思います」と仰いました。そして数日後、上記の葉書を拝受。 (榎本)