
供養と顕彰事業

墓地の清掃 命日、彼岸の墓参り
小平墓地の清掃
小平のお墓は植木、雑草が繁茂していたが、令和4年7月末~8月に中田さなえさんが上尾市から車で5,6回通って掃除をしてくださった。暑いので熱中症にならない様準備して行ったが枝も伸び放題の状態だった、植木を切る鋏も持参したが、入口両脇の大きく育った植木を須藤石材屋さんに相談して根元から伐採した。
ご命日(8/21)お墓参り
ご命日の21日は「土木作業を覚悟」して、鎌、ノコギリ、剪定鋏、軍手をバッグに詰めて出かけました。島本家のご墓地の樹木は見事に剪定され、雑草は奇麗に除草、墓石は磨かれ、真新しい生花が活けてありました。目を疑うほど綺麗でした。追加の菊の花をお供えしました。
お彼岸のお参り 令和4年9月18日
台風14号が接近、雨天の一日でしたが予定通り開催しました。午後になるといっそう激しく降りだしましたが皆さん遠くから駆けつけて下さいました。つくば家石材店に入る否や思わず声も大きくなりしばし思い出話になりました。雨のため中田さんが<つくば家・お墓>間を車でピストン輸送、再び伸び始めた雑草や木の枝を除去、花を飾り、順次焼香、利倉さんの発声で「お茶で献杯」、記念撮影、降雨のため早々に終了しました。手間取ったり、もたついたりの進行になりましたが、島本先生ご一家を忍ぶ有意義な一日になりました。
雨の中 お茶で献杯
メッセージ *小野 *小山 *寺田 *若山 *渡辺
*田中 *河井(ご参加の予定だったが暴風雨のため欠席の電話あり)
雑司ヶ谷墓地の除草 令和4年9月26日
以前、島本先生から雑司ヶ谷墓地の存在を聞いていました。先生は老人ホームに入所していた血縁の方(異母兄弟)に会いに行ったことがあり、その方が亡くなったので雑司ヶ谷に埋葬し詩碑を建てた。先生は「これで河井の血筋は私一人になった」と仰っていた。
9月22日にこの墓にお参りに行った。1万基もある大きな墓地で河井家の墓を探すのに苦労したが、ようやく発見したその墓は背丈ほどのセイタカアワダチソウが生い茂っていた。
9月26日 河井典子さん、中田さなえさん、榎本美恵子(夫同伴)で除草作業を行いました。繫茂している草を見て河井さんが「これアキノキリンソウです」、「先生宅のお掃除のとき教わった」そうです。
河井たまと
その子供たち
ここに眠る
墓は河井酔茗さんが生存時に確保したものと思わ
れる。最後の異母兄弟が没後、石碑は島本融先生
が建立し、この文字を刻んだ。
妻、たまと一男六女が眠っている。
夜のおとどのぼんぼりに
灯ともしておく春の宵 酔茗
おとど? 分からなかったので調べてみた
大殿→大臣、御殿、貴人の館でした。
茨城下妻の新米をお供え
下妻の横瀬隆雄さんから新米を頂きましたので、令和4年11月20日、内田さん、中田さんと共に墓参し、墓石を清掃、花を飾り、新米をお供えました。
河井酔茗と並んで文庫派の有力メンバーであった横瀬夜雨の研究者横瀬隆雄さんにお手紙を差し上げ、島本先生のご逝去をお知らせすると共に「供養と顕彰事業」ついて助言をお願いしました。
以前島本先生から「横瀬さんは新米が穫れると送ってくださる」とお聞きしていたのでその思い出を付記した経緯があり、島本先生に送るはずの米が、この年は私の所へ送られてきましたので、墓前にお供えするとともに今日までご協力いただいた縁故者の方々にお裾分けしました。




【お彼岸のお墓参り参加者】
内田 桑田 利倉 中田 広瀬
榎本・他



河井家の菩提寺と墓地
明治26年(1893)河井酔茗(19歳)と石井たま(16歳)と結婚。
河井家の菩提寺 堺市神明町東3丁目超元寺、島本融先生の祖父母等が眠っている。しかし空襲で焼失したという記録があります。
雑司ヶ谷墓地 妻たまと1男6女が眠る墓
異母兄弟である最後の身内の方が亡くなられた時(平成10年から15年頃)に融先生が埋葬し墓碑を建立、「河井たまとその子供たち ここに眠る」と刻み、「夜のおとどのぼんぼりに灯ともしておく春の宵」と酔茗の歌を添えた。酔茗はこの家族と約30年共に暮らす。
小平墓地
河井酔茗 明治7年5月7日誕生 昭和40年1月17日死亡(享年90歳)
島本久恵 明治26年2月2日誕生 昭和60年6月27日死亡(享年92歳)
島本恵也 大正9年 誕生 昭和27年6月10日死亡(享年31歳)
島本 融 昭和2年4月7日 誕生 令和3年8月21日死亡(享年94歳 ) 埋葬予定
島本融先生3回忌の集い
令和5年9月29日
雑草が繁り植木が伸びていたので掃除する。
田中さんが送って下さった融先生が大好き
なお菓子を供えみんなで焼香した。
河井典子、内田かおる、利倉栄子、広瀬晴美、榎本美恵子・他。
お仕事や体調の都合でご参加いただけなかった方々からも丁寧なご連絡を頂きました。


ご自宅の見納め「献花」と「形見分け」
令和6年2月10日(土)
先生没後「ご自宅にもう一度訪れたい」
という希望が多く、家裁に対して令和4年
以来「3回くらいチャンスの日を設けて欲し
い」と申し入れをしてありましたが、家屋取
り壊し直前のこの日が最初にして最後の機会
になりました。
急な日時設定で、都合がつかない方もいて、
当日の参加者は9名、皆で生花を持ち寄って
御三方に手向けました。
没後初めての生花
融先生没後2年半、仏壇は埃にまみれてい
たので掃除をした。みんなで持ち寄った生花
を供え手を合わせた。
4名の遺影初めて揃う
昔からの酔茗、久恵、惠也の遺影は2年間放置されていたが、この日榎本が持参した融先生の遺影が加わり、島本邸取り壊しの間際にご一族勢揃いさせてあげられた。



参加者 田中加代 永木裕子 利倉栄子 内田かおる 榎本美惠子・他
形見分け
島本邸の「形見」とは、酔茗、久恵、融先生が残された文献類であるがその大部分は近代文学館等に寄贈・保管して頂くべきであり、私が思いついたのは塔影詩社(ご自宅)で編集・出版してきた雑誌「塔影」が大量に余っているので、約100人の縁故者の皆さんにお配りしたいというものでした。
令和4年から相続財産管理人に要請してきて、昨年9月にその機会があったが、管理人に要請してきた先生の知人名簿(または受け取り年賀状等の束)の貸与が実現していないため「形見分けの条件が整っていない」と言うことで延び延びになっていました。
今回は間もなく解体するので2月15日までが期限と通告されたので、名簿等貸与の条件が整わないままの2月10日の実施でした。
2月10日に「形見分け」として、管理人から塔影約200冊を預かりました。
書籍以外の私物(食器・グラス類など)は全部廃棄されますので、欲しい品があれば「ご自由にどうぞ」と言うことで、皆さんが「思い出の品」にと選んでいましたが何分重い物ばかりで大部分は残したままになりました。
葉書・手紙類の整理、雑誌「塔影」の発送
相続財産管理人から、島本邸に保管されていた葉書、手紙類が一式貸与されてきたので、3月3日にみなさんの協力を得て、仕分け整理作業を行いました。
島本先生と同年配の方々からの書簡類、更にそれ以前の塔影詩社時代の書簡類も多いですが、およそ10年以内のお手紙を見つけ出すことにしました。
名前、住所等を整理し、150名程度の縁故者がありました。新たな縁故者も確認出来ましたので3月24日に再び皆さんのご協力を得て「塔影」を2冊ずつ発送しました。



「形見」発送作業(於、榎本自宅)
江口きちさんのお墓参り
令和6年11月8日 群馬県川場村 桂昌寺。
墓守の小笠原えい子さんがお出迎えくださり本堂に通されました。
江口きち辞世の短歌
川場村歴史民俗資料館にて
同館に長年務められた瀧田さんが現地案内を行ってくださいました。
資料館の星野さんから出迎えと展示品のご説明を受けました。








桂昌寺、川場村民俗歴史資料館を訪ねて
11月8日、沼田駅に到着したのは午前9時過ぎでした。内田さんと合流、循環バスに乗り車窓から見えたのは雲一つない真っ青な空、市街を通り抜けるとまだ紅葉には早いのか山々は緑でした。
桂昌寺前で下車、桂昌寺の小笠原さんが玄関先で出迎えて下さいました。
久しぶりの桂昌寺は、客殿や玄関が真新しく改装されましたが庭先は当時のままでした。住職亡き後小笠原さんは、寺の管理、墓守を任されておりました。
コロナ禍以前、島本先生は度々、教え子の皆さんを誘い川場民俗歴史資料館を訪ねました。その後桂昌寺へと向かい江口家の墓参を欠かしませんでした。12月2日はきち女の命日。「からっ風が吹き抜ける中、花を供えていたのは島本先生でした。寒い中を来られたので驚きました」と話された。
先生は、きち女のこと川場の事もよく話されました。それは、ご両親への尊敬の念であり、ご自分亡き後のことを想い描いていたかのように見えました。市内の花屋さんに寄り白いカサブランカをお供えすることが常でした。
昭和5年、江口きちは、河井酔茗の主宰する「女性時代」に投稿、その文才が酔茗の目に留まり、貧困と闘いながら詩作に挑んでいました。しかし26歳という若さで自死。全てを整理してのきち女らしい旅立ちでした。墓碑には辞世の句が刻まれきち女の短い人生を彷彿とさせられます。江口家も妹たきの死によって断絶しましたが、川場の豊かな自然に守られ桂昌寺の墓所にご家族一緒に葬られていました。
私たちは、晩秋に相応しい赤、黄色の菊の花、お線香をお供えしました。
その後瀧田さんが川場村歴史民俗資料館へと案内して下さいました。川場村の歴史や風俗、農民の生活の足跡が館一面に遺されていました。その2室に「江口きち資料室」があります。きちの短歌、日記、書簡等が展示されています。
令和2年に「江口きちの世界」改訂版が発行されたことを当館職員からお聞きしました。
師である酔茗と久恵さんに抱かれるように展示されたきちさんの遺稿、遺品も、末永く語り告げられることを願っています。
令和6年11月20日 榎本美恵子